世界を中心に活躍するデザイナー 『タケイマチコ』
2011年 05月 22日
『タケイマチコ』
――「どこを隠すかではなく、どこを魅せるか。そして、そこからが私たちの仕事。」
1930年5月9日生まれ。自然が豊かな長野の農村で生まれ育つが、両親が離婚。さらに母親に引き取られた後再婚し、小学生のころに東京へ引っ越す。画商だった義父の影響によって幼少時より絵画などに慣れ親しんだ生活を送った。特に好んだものが、その当時、画壇を引っ張っていた糸魚川綺羅のものだった。彼の突き抜けた単色と透き通った女性の肌を合わせるという作風は、後に彼女のファッションセンスにも影響をすることとなる。
しかし日本が戦争へと突入していくのとともに彼女の中で、芸術の必要性、というものが問われていくことになる。このことは当時、疎開先から家族に送った手紙の文面からも伺うことができる。高尚な芸術から、身近な芸術へ。その理想を叶えるために彼女が選んだものこそがファッションであった。
戦争の終結後、彼女はデザイン学科へと進み本格的なファッションの勉強を始めることになった。卓越した色彩センスや装飾技術は当時から群を抜いていて、在学中に制作した「青いワンピース」はデザインではなく芸術作品としてコンクールで新人賞を受賞することとなる。このとき審査員をつとめていたフサ枝・ヘミングから直接、自身のブランドのデザイナーとして引き抜かれることなった。
27歳の時にその腕が認められ、個人ブランドを設立することとなる。拠点を日本からフランスに移したのもこの頃である。はじめの頃は認められず、苦心する日々が続いたが、単色を強く押し出したデザインを発表するようになり、若者から市民権を得た。
その後徐々に世界的な人気を得るようになった。
――「どこを隠すかではなく、どこを魅せるか。そして、そこからが私たちの仕事。」
1930年5月9日生まれ。自然が豊かな長野の農村で生まれ育つが、両親が離婚。さらに母親に引き取られた後再婚し、小学生のころに東京へ引っ越す。画商だった義父の影響によって幼少時より絵画などに慣れ親しんだ生活を送った。特に好んだものが、その当時、画壇を引っ張っていた糸魚川綺羅のものだった。彼の突き抜けた単色と透き通った女性の肌を合わせるという作風は、後に彼女のファッションセンスにも影響をすることとなる。
しかし日本が戦争へと突入していくのとともに彼女の中で、芸術の必要性、というものが問われていくことになる。このことは当時、疎開先から家族に送った手紙の文面からも伺うことができる。高尚な芸術から、身近な芸術へ。その理想を叶えるために彼女が選んだものこそがファッションであった。
戦争の終結後、彼女はデザイン学科へと進み本格的なファッションの勉強を始めることになった。卓越した色彩センスや装飾技術は当時から群を抜いていて、在学中に制作した「青いワンピース」はデザインではなく芸術作品としてコンクールで新人賞を受賞することとなる。このとき審査員をつとめていたフサ枝・ヘミングから直接、自身のブランドのデザイナーとして引き抜かれることなった。
27歳の時にその腕が認められ、個人ブランドを設立することとなる。拠点を日本からフランスに移したのもこの頃である。はじめの頃は認められず、苦心する日々が続いたが、単色を強く押し出したデザインを発表するようになり、若者から市民権を得た。
その後徐々に世界的な人気を得るようになった。
by karakangengaku
| 2011-05-22 18:06
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